日本一周、オートバイでの貧乏旅行

最終更新日: 作者:月寅次郎

オートバイで日本一周した記録

わたしのオートバイ日本一周データ

期間:1987年6月15日~1988年3月28日(約9ヶ月半)

こちらに何枚か、当時の画像を置いてあります(北米大陸横断時の画像も有り)

日本一周 オートバイ

バイク:ホンダXL250R(オフローダーだったため、未舗装路に楽に入れて、寝る場所を見つけるのが楽でした)

宿泊:基本的に野宿、無料のキャンプ場、山中に入り込んで、空いた場所にテントを張って寝るなどです
都会では、安心、安全に野宿可能な場所がほぼないので、基本的に田舎や里山地域などの人口密度がかなり低いエリアで野宿するように、その日のコース取りを考えていました
また、人口多めのエリアの橋の下で寝ようとすると、国交省に委託された方が指導にこられるので、河川敷は雨天などでやむを得ない時、人目につかないように配慮して野営しました、(確か、四国での一度のみです)

宿泊費用:当時の北海道は無料~数百円で寝られる場所も多く、北海道内で数百円の宿泊施設に数回泊まった程度で、あとはすべて野営・野宿です。全宿泊費は1000円前後です(

風呂
ときどき銭湯に寄っていました。80年台当時は、銭湯がまだ日本各地で営業しており、それほど困ることはありませんでしたが、貧乏だったため、銭湯に入る回数は抑えるようにして、人のいない公園の水道で頭を洗ったりしたこともあります

お金:出発時の所持金は15万円(全財産)でした。終了時の所持金は約30万円でした。北海道、東京、沖縄の3箇所でバイトをして、旅費を稼ぎました

立場:当時は大学生3年生、休学をして日本一周しました
仕送りをもらっていない貧乏学生で、新聞屋さんに住み込みで働く新聞奨学生という立場でした(いわゆる苦学生というやつです)。日本一周するために新聞奨学生を辞めたのですが、住み込みだったため、同時に寝る場所も失うことになり、お友達の家を転々と居候しながら、旅の準備をいたしました

日本一周 コース概要



岡山をスタート→日本海北上→青森→函館(青函連絡船)、北海道入り→
富良野の無料キャンプ場に逗留し、スイカ収穫のバイトで旅費を稼ぐ→


道東を巡る→相泊から知床岬先端まで、海岸線を歩いて往復(二泊三日)→
道北に行く→バイクは稚内に置いて、利尻島へ徒歩で渡る、利尻島登山、礼文島歩いて一周→
道南に戻る→函館→大間町(フェリー)→東北山中の林道(未舗装路)を辿りながら、紅葉を見ながら関東圏まで降りる


東京にて、北海道で会った友人宅にお世話になる(居候)→居候しながら東京モーターショーの警備員のバイト、南下するための旅費を稼ぐ(当時はまだ晴海でモーターショーをやっていた)
近畿、北陸あたりをうろうろしながら南下、四国で雪に見舞われる→出発地の岡山に一旦戻り、すぐにまた南下→九州はさらっと降りて鹿児島から南西フェリーで沖縄本島へ→さらにフェリーで石垣島へ→


石垣島の米原キャンプ場に逗留、北海道で会った仲間と再開、クリスマスを祝い、年を越す→
西表島のパナリ島(新城島の下地島)でパナリ牧場の牧草地を作るアルバイト→
与那国島にて牧場の柵や石垣を積むアルバイト(岡山に戻った際、住む場所が無かったので、アパートを借りる敷金礼金分まで旅先で稼いでおく必要があった)→
西表島にてしばらく逗留→居られるだけ西表島に滞在し、南西フェリーで鹿児島まで戻る→


すらこらさっさと岡山まで戻り、休学延長の手続きを済ませる(春・旅の終わり)
その後、岡山で半年間ひたすらバイトして、アメリカ横断の度に出ました


当時は、インターネットも携帯電話もナビゲーションシステムも、まだ発明されておらず、昭文社のマップル(地図)ひとつで、事前情報も何もなしに、行き当たりばったりの旅をしていました
安物のテントと仏壇ローソク、ナショナル製ではないパチもんのヘッデン、イスカのスリーシーズン用寝袋、モンベルのタフバッグ(3番)、コールマンのピークワンストーブ(ガソリンコンロ)などは、心に残る思い出の装備です
そういえば当時は、まだ道の駅やスーパー銭湯がありませんでした